昭和50年05月18日 朝の御理解
御理解 第100節
「めでためでたの若松様よ枝も栄える葉も茂るというではないか。金光大神は子孫繁盛家繁盛の道を教えるのじゃ。」
子孫繁盛家繁盛を願わない者はありません。皆んなそこを願っとります。お道の信心をさせて頂いたら、金光大神の御教えを頂くわけです。頂く教えの全てが、御理解百節になってくるような、教えを下さるのです。金光様の信心する者は、皆んなこういうおかげを受けなければ、神様に対しても相済まん事になります。所がまぁお道の信心が、いわゆる教祖金光大神が、この世に御出現になられて、百数十年、果してお道の信心を頂いた人達が、このようなおかげを受けておるかというと、実にそれは稀である。
どうした事だろう。教祖金光大神が、うそを教えておられるとは思われない。私は教祖様の教えて下さる、御教えのすべてがね、私共信心する者信奉者が、その教祖の御教えの一つ一つを実証して行く。すると教祖様は嘘をおっしゃっていないんだと、本当のことを教えておられるんだという事を実証して行けれるおかげを受けなければなりません。どういうおかげかというと、それこそ目出度そでたの若松様よでありね、子孫繁盛であり、家繁盛であります。
どこ辺が間違っとればそういうおかげに繋がってこないのだろうか、まずは私は其処を検討しなければいけないと思うでね。 それは金光様の信心をさして頂いておれば、はじめからそういうおかげおかげという様な事であると言う事もありません。そりゃおかげ、おかげなら金光様なぁことはいりません。けど教祖様はどうぞ氏子信心しておかげを受けてくれよという。どうぞとこうおっしゃっておられるおかげと言うのは私共が御神徳を受けるという事です。ね。
御神徳を受けなければです、いわゆるこのめでためでたというような、又は親の代より子の代、子の代より孫の代といったようなおかげにならんのです。だからこの教えの全てが、御神徳を受ける為の手だてなんです。昨日は合楽会でしたから、合楽会でまあいろいろおそうまで、信心の共励をさして貰いました中に、桜井先生の事を話しました。一昨、一昨日が、日田の支部の御大祭でございましたから。
皆さんこっちからも皆んなおかげを受けました、中に桜井先生も、どうでも一つ日田の支部の大祭にはおかげを頂きたいという願いを持っておられた。ところがその日どうしても用件をすましとかにゃならない用件が久留米にあったわけです。丁度先生が今から久留米にやらして頂くというお届けに見えた時に、伊万里の市長さん達一行がお参りをして来ておった。それは市長さんの新しい車が購入された。
それのお届けに見えておられた。市長さん方が帰られるのと桜井先生が表に出られるのが一緒だった、それで竹内先生が桜井先生どうぞ久留米にお出られるなら乗って行って下さい。どちらにお出ですか。久留米の六つ門に行かねばならない。実は私もその六つ門に行かねばなりません。九州藍胎漆器に寄って買い物をして行きたいとこう言っとられます。桜井先生が行かれるのも矢張りその近所であったどうぞお乗り下さい。
そら勿体ないこういう大きな新車にね、乗せてもろうて勿体ないというて勿体ない勿体ないでまあー乗っておいでられた。そして用件をすましてバスで善導寺まで帰ってみえて善導寺から九大線でおかげを頂こうと思うて駅の方へ行かれとりましたら、御承知のように久富建設ですかね、正義さんのお宅がすぐ駅の前でありますからそのすぐ駅の近所まで行かれたら正義さんの所から、正義さんの車がひょろ々と出て来た。
ああ桜井先生あらどこへ行きよんなさるですかと、私は九大線で日田の御大祭にお参りさして貰おうと思よりますとこう云うわけです。ああ私も丁度お参りさせて頂きよるのですからというてそこから、久富正義先生が車でお参りが出来たというお届けをお参りから帰ってお届けをしとられました。桜井先生にその時話した事です。桜井先生今例えばどういう不如意のことが起こっておっても、難儀が問題の難儀の最中にあっておっても、これ程しの間違いのない、働きの中にあっておる事ですから。
お礼を申し上げねばならない事、ばっかりですなと言うて話した事です。ね。行きがけは竹内先生の車で、しかも自分が行きたいところへ行きよんなさる車に便乗させてもらうた。帰りは九大線を利用してと思うて、駅の手前のところまで行ったところが、正義先生がひょろ々と出て来た。その車が日田まで行こうとこういうのである。ね。いうならば、ね、後先にですこういう神様の間違いのない働きをです、ひしひしと感じるから、難儀もいうならば苦労をも。
そういう間違いのない働きの中にあるんだとわかるから、お礼を申し上げれるんです。どうしてこんなに難儀が続くのだろう。どうして私ばかりこんな難儀な目に合わんならんのだろうかと、例えば、後、先にそういうおかげを日々頂いて行くのですからその難儀も又神様の御神慮の中にある事が、神様の御働きの中にある事なんだと。いうならば、このようにして、いよいよ私に力をくださってあるんだ、このようにして、御神徳を受けてくれよという神様の働きがあっておるんだという事が実感出来る。
だからお礼を申し上げる事になるのです。その瞬間です、お徳を受ける瞬間というのは。お徳が育っていくというのはそういう時なんです。只その難儀から脱却したい。その難儀から逃れたい。やれ痛や今みかげをという心になれよと。ああ難儀な事だけれどもね、神様の間違いのない御働きの中にあって然もお礼申し上げねばならない、これは事実がそうなんたけれども、私し共がです、やはり苦しい時には苦しい。けれども有難いというお礼心が生まれてくる。
私くしは教祖様はねそう言う勿論、木の切り株に腰を下ろしても立つ時にはお礼を申し上げる心持ちになれよとおっしゃるが、そういう一切のものにお礼が言えれる心の状態をつくって行くこと、それは幸と反対にいわゆる、逆行しておると言った様な場合であってもです、もうそれはお礼を申し上げる以外にはない。神愛の現れである事をです、私くし共がねその節々というか端々にというか、又前後に神様のこのように一分一厘間違いのない御働きの中にあって事だから、有難いのだ。
だからねそういう神様の特別の働きの中にです、夕べも私はその話を思い出させてもらったから、聞いて頂いたんですけれども。ね。日奈久の富永先生が教師になられ、それから布教所を持たれて七、八年の間もうそれこそまぁ目も当てられんような難儀な状態の中に、六畳の一と間にそれこそ西日でも射すときゃ御広前一杯に西日が射すときは暑うしてこたえんと言う様な御広前で、辛抱されたけれども体は弱い。奥さんと二人でそれこそまあいうなら食うか、食わぬかと言った様な状態の中に過ごしておられた。
それにかてて加えてもう年末のあと十日もすれば、正月という時に、大家さんからどうでもこの家を急にあけてもらわんならん事が出来たからあけてくれという。いうならば、無理難題の様な事であった。始めて私か椛目でおかげを頂いておる時に、夫婦でお参りになって、その前後策どうしたならよいのか、まぁ皆んなが合楽合楽というが当時の椛目、椛目というから一ぺん椛目にお参りして、腹を決めようというのでそれこそいうなら泣きの涙でのお取次であった。お取次さして頂いた。ね。
そしたら私が頂きます事がね、いわゆる雪の生態ですかね、雪です降る雪です。あれは顕微鏡で見ますと、それこそその雪の一片一片が本当にこれが天地の神様のお手になっておると思わにゃおられん程しのもう、実に微妙なです、一つ一つが幾何学模様になっおるという事なんです。その雪の生態それを頂いたんです。だから私が富永先生これはとてもほんなごて、どうした冷たい大家さんじゃろうかでなくてから、もうこりゃ天地の親神様の切なる願いというか。
おかげ頂かさなければおかんという働きが、このようにしてはじまっとるのですけん、お礼申し上げなければいけませんよ。成程雪は冷たい。成程大家は冷たいけれどもね、そこには神様の大家を使うての御働きがあっとるのですから、お礼を申し上げねばならんというて、懇々とまあ一時間くらいお話を聞いてもらいました。もうそれこそ心が楽になって、肝が決まって帰られた。
その翌日お参りしてきた信者が、今熊本でそれこそもうあっちこっち引っ張り凧といわれる位に、素晴らしい信心をする信者が、はじめてお繰り合わせを頂いた。ね。おかげを頂いたその話を聞いて、先生、私が家を探しましょうというて、日奈久の町のそれこそ中心部であるけれども、一寸引っ込んだ、実に閑静なしかも御広前、教会の為に建てられたような、まこじんまりとした家ではあるけれども、教会の為に建てたと思われるような空き家が一軒見つかったんです。
年内に家移りがすんだ。はじめて元旦祭を教会らしい教会でおかげを頂く事になってきた。その時分に信心をいわゆる求めてくる人達が毎日、六、七人宛続いた。全然お参りのない教会に、半年足らずでおかげで教会になる事が出来た。そして今日今の御比礼である。先日もお参りしてきてから、どこどこ教会の御大祭の御説教を頼まれました。それがもう、この頃私がお話が出来ませんのに、あっちこっちからお話に来てくれと言うて、おかげを頂かれますから。
そんなおかげがどこにあるのか、どうすりゃおかげが頂かれるかと、矢張り皆んなが求めておるわけであります、人が羨望する程しのおかげを受けておられる。私は最近特にそれを感ずる事は、富信会にいつも信者を連れて七、八名位見えます。その七、八名の信者の一人ひとりが素晴らしいんです。皆さんも御承知の通りですよね、成程こういう人達が中心になって行きよるのだなと思いますとです、本当に神様のおかげを下さろうとするその働きのところがね、どうでしょう。
そう言う大家が出て行けというそんなに目に指つきこまれるごと言われたっちゃ困るというて、大家と対立する。出るの出らんのというて問題を起こすと言った様な事では、そういうおかげになってこないのです。ね。始はそう思うた何と冷たい大家だろうかと思うた。その冷たい大家が神様の仕打ちである事がわかってきた。神愛とわかってきた。その事にお礼を申し上げる心が起こってきた。ね。
もうそこに御神徳のいうならば、種を頂いた様なもんですよ。それがどんどん育っていって人がどんどん助かるようになった。それこそ皆んなが羨ましがると言う様ないわば信者が次々と出来て来る様になった。どんなに考えたってね毎日その新たな信者が六七名宛平均にお参りして来た。それがある事がらからそれがピタッと止まった時代がございました。人間というものは少しおかげを頂き出すとすぐ所謂慢心が出る。ね。そう言う様な事に又気づかれて、今又新たな御比礼を頂いとられるわけです。
どうですか本当にめでためでたの道を教えて下さる神様である事がわかるでしょうが。しかもそう言う信心をいよいよ頂いて行くなら、御神徳の受けられないはずがありません。ね。信心の無い者、薄い者はどうした冷たい大家だろうかしか言いません。それでもやっぱり神様に縋るから、おかげはくださってもお徳にはなりません。ね。桜井先生に昨日私が申しましたように、今本当にこれ程しの信心が出来て、これ程の難儀が続くという事はと言う様な難儀の中にありますけれども。
日々の生活の中にその前後に、神様のこういう間違いのない働きが、あっておるのだから、この中の難儀もやはり神様の御働きの中にあるんだとわかる。実感しなければおられない。だからそこにお礼が言えれる。もうそれこそ生き生きとしたお礼が言えれる事になってくるのですね。だからお徳を受けるのです。その御神徳がね、所謂子孫繁盛の元であり、家繁盛の元になるのです。親の代より子の代子の代より孫の代。
私は最近思うんですけれどもそういうね、お礼を申し上げねばならない事にお礼を言うどころではなくて、反対に不平、不足、いやこれ程信心しよるのにといったような人がまずほとんどのように思う。それでも苦しいからお縋りしてはおるけれども、だからお縋りするからおかげを頂いとるけれども、只、おかげを頂いたというだけなんです。昨日は親先生の百日祭でしたから、あちらへおかげ頂きました。
後から御直会の席でした。北野の先生が大坪先生、此の頃あなたの糖尿病はどげなふうかともう相変わらずです。私はこんどあんたに会うたなら教えてあげようと思いよった。糖尿病の薬にはですね、ねずみもちという木があるでしょう。もちの木このもちを黒焼きにしてね、そのう飲むととにかく医者が見放したような糖尿病も助かっとるという事を聞いたから、それをあんたに教えてあげたいと思うてとこういう事でした。
だから本当に糖尿病ならばね、そうすればよいかもしれません。成程、医学では私のは誰が言うたって、腎臓と糖尿病である事は医学の上ではそうなんですけれども、私はそうは思わない。糖尿病という名の神様の御都合だというならば、有難く頂いておるんです。それでもわざわざあげん言うて教えて頂いたからですね、やっぱりてまえんでん 今次会うた時には、どげんじゃったの、やっぱり効きよりますかと言われた時は困ると思うてね、帰って其の事をすぐお届けさして頂いたんですよ。
そしたらね、神様から頂く事が、あの世でのタイミングが狂うと頂いたんですよ。私は、これは皆さんには、わからんかもしれんね。霊の世界なんかを信じない人に言うたってわからんです。けれども私しどんはこの世の世界より霊の世界の方が実を言うたら大事なんです。そん為に本気で霊を清めておこうというのです。霊だけは、この世あの世を通しての事ですから。
ですから私がそのねずみもちの煎じ薬を飲んで、一年長生きする。普通頂いとる寿命より一年長生きすると致しましょうか。ああ、あの薬は効いたと言う事になりましょうか。ところがね、あの世でのタイミングが狂うと神様はおっしゃった。桜井先生のその話じゃないけれども、とにかく一分間狂うたらその車はもうおらん出て行くとですよ、一分間狂うたらもう先生は駅の方は行っちゃる。正義先生は日田の方へ行っちゃるという事になるとですよ。そういう一分一厘間違いのない働きがね。
私共の周辺にいつもあっているんです。だから私が薬は毒だというんです。だけれどもその毒だけれどもそれがへんして薬となるお繰り合わせを願うて、お取次を頂いておかげを頂かしてもらう所にですね、いうならば、タイミングも狂わんですむようなお繰り合わせを下さるわけなんです。けど私共のようにま何十年間薬一服頂かないでと云う生き方者はです、それこそ神様の御都合のままに御神慮のまにまに動いておるという生き方の中にはです、私はそれを頂いてから本当もう驚きました。ね。
成程なら薬を飲んでそれが、よしなら私くしが一年なら一年二年なら二年長生きをする事になったらです、あの世でのタイミングが狂うと仰った。とても勿体なうして勿体のうして、薬だん飲まれんという事になるのです。私は薬を飲んじゃならんというのじゃないですよ。医者にかかっちゃならんというのじゃないですよ。そりゃそれぞれの言うなら信心の程度ですけど、けどもその時には祈れ薬れと仰るから神様のおかげをもって、それこそ毒薬でも変して薬となる様なおかげを頂かしてもらうて頂くんです。
そういう生き方を身につけて行かなきゃいけんのです。それが本当にそうだと確信出来れる信心になって行かなきゃいけんのです。日々おかげを頂かして頂いとる上にもです、どういうそれはその問題は難儀な問題でありましてもその前後にこういう間違いのない働きを、そこに見そして体験して行くならばです、苦しい事にも又、お礼が言えれる様な道を金光大神は教えておって下さるのです。
だから皆ーんなおかげです。降ってもおかげ、照ってもおかげと実感としてですよ、お礼の言えれる信心を頂かにゃいかんのです。そこにはね、今申しますように、神様がねおかげ頂かしたいという神様の御一念がです、その後先に素晴らしいタイミングが生まれてくるんです。ね。どうしておかげを受けられんのだろうかという事を、追求しなければいけません。例えば教団でも、お取次成就信心生活運動という事がです、もう二十五年間それこそ叫ばれ続けてまいりました。
所がそういう尊い運動がです、一っつも運動になっていない 運動という事は運び動かなければ駄目です。動いて行かなければ。ところがそれでなら、金光教の信者が増えたかというと一っーつも増えてない。御取次成就信心生活運動、ね、運動が運動になってない。そこで今年来年あたりは、そこんところにメス当ててというか、いわゆる本当のおん取次が成就しなければならないと云う事になってきた。
だからその御取次が成就するという事は、どういう事かというと神様の願いが成就するという事なのです。神様の願いはな辺にあるかという事です。今神様が一番心を痛めておられる事はどういう事であらろうと、まず私は思うてみなければいけないと思う。いわゆる世界の難儀です金光教の難儀じゃありません。天地金乃神様という方はそう言う小さい金光教の信者だけにおかげを下さろうと言う様な神様じゃないです。
今の地球上に現れている様々な現象、様々な難儀な問題の様相というものがです、いろいろわからせて頂くわけですけれども、それも私くしは丁度合楽で、合楽示現活動がはじまって丸一年になるという話が夕べ出たんです。それで又一年前の事を改めて思うた、思い出してまあー御互い話し合った事で御座いますけれども、一年前に私が頂いたいうならあの、歓天喜地という事、天が喜び、地が喜び、神様と氏子がそれこそ喜びあえれる世界、それが神様の願いである。それが合楽である。
神様と氏子か喜びあえれる世界、それなのにです。寒天危地という事が、寒い天、危険の地と、語呂は同んなじですけれども、今の言うならば私くし共が住んでおる地球上にはね、そういう、それこそ、心が寒うなるような、肌に粟粒を感ずるような、大変な時に今あるという事なのです。世界中の人が本当にここに目覚めて、ここに気づかせて頂かなければいけない時なのです。全教を一新して全教一家と言う事は、いうならば、世界の言うならば宗教者と申しましょうか。
人が助かるという程しの例えば教えなら教えをもっておるね、信心をする人達がうって一丸となってその世界の難儀に取り組まねばならない時なんです。色々な事でなくて、そういう神様の一番願いとされるところに焦点をおく信心にならなければ駄目です。教団の建て直しとかね、まず私くし共が助からねばという事でなくて、私くし共がならいま五十万なら五十万の信奉者がおるとするなら、その五十万の信奉者がです。
愈々本気で具体的にです、世界の難儀に取り組ませて頂いて、おかげを頂いて行くという信心になる時に神様がね示現なさる。所謂示現という事は示し現すそれを字引で引かせて頂くとね、不思議な働きを神仏が現す事だとあります。神様が先頭に立ちなさらなければです、出来る事ではないです。私くしどんがいくらガタガタしたっちぃやぁ駄目です。神様の御発動を願わなければでけんです。人間が発動したって駄目です。
そこで神様が御発動なさるようなおかげね、金光大神をいうならば、現すというけれども現すというて現れなさる神様じゃないです。神様がね現すのでなくて、現れて下さる信心が必要なのです。ならどういう状態になったら現れて下さるかという事なんです。それを今日皆さんに聞いて頂いたんです。それをなら私の所桜井先生の所ね、富永先生の所お礼を申し上げねばならない事にお礼の言えてない様な事では神様は発動なさいません。所謂御神慮がわかって、神の心が心として解って。
それに対する信心が出来た時にはじめて神様の御発動が始るのです。もうそこには人間の知恵、力ではありません。そういう神様の働きに依らなければ、まっ言うならばそれを小さくいうならば子孫繁盛、家繁盛という事、お国が繁盛すると、世界中のいうならば氏子がです、助かって行けれる道というのは、そういう天地のいうならば、活動がはじまらなければでけることじゃない。
その活動を促すものは私共信心者信奉者なのです。まあえらい大きな事になりました。まずはね、私共が家繁盛、子孫繁盛を願わん者は一人もありません。そんならそういう道を教祖金光大神は教えて下さるというのですから、その道を私共は体得して行かねばいけません。只ね合理的な信心とか、道徳的な信心から脱却しなければいけません。それにではね、それだけのおかげです。
やはり超がつく様なおかげです、超道徳です超常識です。例え神様の教えでありましても、それが右が左であっても帰り道には、それこそ戻しの風は十層倍と言った様な働きが、所謂信心はどんなに私共が考えてせも理不尽なんです、にしか聞こえて来ませんし思えませんです。けれども神様がそう教えて下さるのだから、人間の知恵力の別の世界に住むとでも申しましょうかね。いわゆる戻しの風は十層倍という。そこにはもう超のつくおかげになるのです。
今の時代にはその超のつくような、神様の御発動というか、おかげでなからにゃもう間に合わんです。そういう信心に一つお互い一つ目覚めさして頂きたいと思う。金光大神は子孫繁盛家繁盛の道と言う事は、御神徳を受ける道と言う事なんです。おかげを頂く道じゃないです、御神徳を受ける道ですそれに伴うて来るおかげの道であって、親の代より子の代、より子孫繁盛家繁盛の道も又、約束されるわけですからね。
どうぞ。